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BrainSquall

競馬ニュースを中心に、レース回顧、POG、一口についてのタワゴト。他にフロンターレとかアニメとか・・・でした。

僕と君の見ている風景は本当に同じモノなのだろうか?

連休最終日でボンヤリとストパン1期見ながらネットしてたら、昨日のカノヤザクラの死にまつわるやり取りで、ちょっと気になったことがあったので言及。気になったのはこちらのカノヤザクラはそこまでの馬だったのかという記事。実は記事自体の意図みたいなものも、ちょっと良く理解できてないのだけど、正直トロ様とのやり取りとか全部追うとか趣味ではないので、それは置いておく。じゃあ何が気になったんだと言われると、ここの導入部で「ツイッターで私がチェックしているアカウントからはおよそ下記のような反応が見られました。」を元に記事をスタートしているところ。

結論から書くと、ある特定のツイートを抽出して、それ自体に対してリアクションで文章書くのってかなり慎重な取り扱いが要求されるのではないかと思うのだよね。twitterっていわゆる「その人のTLに流れる独特な流れ」みたいなものがあって、ツイートはそこから生まれるから、端から後からツイートだけ取り出したところで、そこに含まれていた情報量を全て読み取るのは難しいのではないかと。

昨日のカノヤザクラの死についていえば、まず個人的に言えば「良くある競馬の中での事故」以上のものではなかった。恐らくtwitterを見なければ、それは競馬を始めて、たぶんサイレンススズカが死んだあたりで、僕の中で処理できるようになった「競馬だから仕方ない」というフレームの中で処理できた出来事でしかなかったと思う。ただ僕のTLの中ではカノヤザクラに思いを馳せていて、その事故に動揺する人がいて、感情を乗せたツイートをみてるうちに、久しぶりにアテられてしまって、あの秋の日曜日の夕方を思い出させる脳内物質がガンガン出てしまったのよね。そこでグっと踏ん張って、それ以上僕は何も書かなかったし、書けなかったのだけど。

件のエントリで引っ張ってきているツイートというのは、そんな風景の中で生まれてきたツイートであると僕は思う。だからそれに対して、例えばblogのエントリのような、ある程度自立した言葉と同じカタチで抜き出して語ってしまうのは、ちょっと軽率すぎるのではないかと。全てを類推することはニュータイプではないので出来ないのは当然なのだけど、人の言葉を取り上げるときは、その言葉の乗っているインフラ・メディアの特性について、もうちょっと考えた方よいのではないだろうか。僕と君は同じ風景を見ているのかも知れないけど、僕と君がそれを同じに見えているかは誰にもわからないのがヒトという生き物なんだし。