BrainSquall

競馬ニュースを中心に、レース回顧、POG、一口についてのタワゴト。他にフロンターレとかアニメとか・・・でした。

ボクの競馬とセカイの競馬

最近流れについていってなかったので、ちょこっと駄文。だらだら長くなりそうなので、一行でまとめると岩手の件についても、JPNの水上氏のエントリにしても結局は競馬の持つ完結性の高さ、それに伴う無責任性の裏返しなんだろうなあと思ったという話。

呆れました<白線の内がわ>

感情論<みんなの予想を超えて@はてな

GIに代わる新たな表記は、「JPNI、II、III」 : 馬い毎日<昨日の風はどんなのだっけ?>

海外競馬の識者って誰だろう<血統の森+はてな


競馬は異様にそれぞれのプレイヤーが完結しすぎてるエンタメである。いわゆる競馬ファンについて考えてみよう。馬券購入者あくまで競馬(胴元)と勝負する。横にいる他人と勝負するわけではない(ように見える)。さらに競馬の奥深さゆえ、ファンの接し方はまちまち。予想するにしても十人十色であるし、スポーツとして楽しむならば馬券すらいらない。となると、他のスポーツと違って何かを全員で応援するということは基本的にありえない。当たり前だが「競馬ファン」という概念はあまりに広範すぎる。

予想家はその予想の方法を他人に批評される必要はない。予想家が集まったマスコミは当然予想のことしか頭にないので関係者を批評する精神などは持ち合わせていない。旧社関係者はマスコミにも批評、批判されない。お上が雇い主なので一般大衆の目を意識することはない。生産者の客は馬主。馬主は生産者から馬を買って関係者との世界で馬を走らせる。が、発言権は金次第。すべてのプレイヤーが自分の周りにいる人間にだけ関わればいい。つまり責任を取らなければならないのは半径3mだけ。だからこそ、水上氏のような言説が存在しえる。誰からも批判されることのない、責任を取ることを求められない競馬予想家として生きる水上氏。すべてが完結した世界で単に一瞬だけ耳障りの良い言説を主張すれば生きていける。だから平然と自分の価値観だけを信じて発言ができるのだろう。極めて狭い世界の中で生きていけてしまう。

しかしである。生きていけてしまうと書いたが、それは競馬というものが存在するだけで存在感のあったエンタメの少ない時代の話である。現代において競馬以外にも魅力的なものはいくらでもあるし、競馬でさえ地方、海外、中央がフラットに存在できる。そうなるとどう業界を売るかが問題となる。ここで普通業界と呼ばれるものにはある程度「お客様(財源)」は見えるものだ。しかし競馬の世界ではすべてのプレイヤーが「お客様(財源)」に見えてしまうところに不思議さがある。それゆえに生産者は競馬を農業でしかないと思ってるし、厩舎関係者は同業者に勝つことが財源だと考えている。確かに貴族のスポーツであるヨーロッパの競馬においてはこれはある程度当てはまる。しかしそれはこれだけ地方競馬がバンバン潰れてしまう今、日本においてそれは幻想であるのは自明だ。現代日本競馬において、すべての競馬の根底を支えているのは広義の「競馬ファン」である。馬券としてかもしれないし、ただのスポーツ観戦者としてかもしれない。しかし彼らが存在を許すから、競馬存在し、ゆえにそっぽを向かれたとき、競馬業界というのはあっというまに(特に競馬ファンの層が薄い地方競馬は)瓦解してしまう。

ところがいまだ競馬界には自己完結の中で生きていけるという幻想が消えない。確かに競馬は多様な価値観を許す奥深い存在である。だが多様な価値観はそれを支えるインフラなくしては存在しない。昔ならば共通の大きな物語を信じて、ただ存在するだけで競馬の価値が信じられた。存在しえた。だが、多様な価値観を認め合う現代ゆえに、多様な価値観を許す存在はそこに確かな(価値観の薄まった)インフラが必要とされる。そして競馬においてそれは「競馬ファン」しかありえない。ここでいう「競馬ファン」には「金を落とす存在」「文化的に評価する存在」として競馬に積極的に触れる人々だけを含むわけではない。興味はないけど競馬が存在してもいいよねという物言わぬ人々もすら含む。彼らを引き入れるためには自己完結の世界で生きていくわけには行かないのだ。競馬界を代表する立場の人間の暴力事件を「事のレベルが小さすぎる。第一あの程度で騒いだら、昭和50年代初期までの野球選手なんて・・・」などという発言をするということは、つまりそれは自己完結の世界の中で競馬がゆっくり息の根を止められることを肯定する発言である。もし競馬がなくなってもいいから、自己完結の世界の中で生きていたいというのなら仕方ない。しかし、だったら地方競馬がなくなることにどうこういう資格はないのだ。競馬がギャンブルが世間的に悪と言われることを背負いながらも、それでも競馬が存在することを世界に許されようとする武豊に比べて、あまりにも立場をわきまえない発言だ。プロのライターとして恥ずかしすぎる。

競馬がそこに存在するためには、もっともっと強度が必要だ。自己完結性の高さというものは競馬の面白さでありながら、アキレス腱となっている。いかにして自己完結性の副作用である無責任さから抜け出して、競馬が存在することを外に許されるかを問い続けられるかをを競馬に関わる人間は考えなければならない。