BrainSquall

競馬ニュースを中心に、レース回顧、POG、一口についてのタワゴト。他にフロンターレとかアニメとか・・・でした。

時をかける少女が傑作すぎる

渋谷の道玄坂のラブホ街を男2人で相合傘しつつ、見に行ってきましたよ。ネットの評判があまりに良いので、ちょっと構えて行ったのですが、良い意味で裏切られた。っていうか素晴らしすぎますよ。現代における青春映画として傑作というしかない。原作の要素を生かしつつ、見事に現代のワカモノがリアルに感じられない世界の唯一性に回答を見出してますね。映像も音楽も凄くよいので是非見に行って欲しい。僕はあまり映画を普段見に行かない人だけど、一緒に言った映画ヲタも絶賛ですよ。惜しむらくはこの作品がいまだにアニメ映画の枠をでてないこと。観客もヲタ多かったし。つーか道玄坂の映画館とかヲタにはつらい設定だよ!時間つぶしに入った1階にあるカフェはやたらお洒落だし!ま、それはともかくダッシュで見に行ってください。以下ネタバレ@mixi転載




頼むから映画見てから読んでね。









この音楽とかコマ割などテクニック的なものについて語るには、普段あまりに映画を見ないので主にストーリー中心で、かつ個人的な思い込み全開でいきますよ。ま、究極の自己満足w

この作品の素晴らしいところは、ジュブナイル小説の古典ともいえる原作「時をかける少女」をテコに、現代が抱える物語の唯一性の喪失、物語の多面的な消費を鮮やかに切り取っていること。そして主人公に成長とタイムリープを通じて、再度唯一性を獲得させているところにある。物語の唯一性の喪失(大きな物語の喪失、第三者の目の喪失)については誤解を恐れずにまとめると次のようになる。

「物語を読み込むことで、その裏にある世界観を感じ、その世界観を唯一のものとして認識する。そしてその世界観(設定、キャラ、ストーリー)を語り合うこと(補完すること)で物語を消費する時代」が終わり、「物語が読み込める世界観そのものに絶対性はなく、その要素を踏まえた上で各自の世界観を構築し、本来提示されたものとは違う世界観さえも、その作品の一部として楽しめてしまう時代」への変化である。

端的な例でいえば本来のストーリーとは別にキャラだけを要素に、胴元から育成ゲームとして消費されてしまうようなエヴァ、また「何度違うヒロイン相手に違う人生を何度歩んでも、そのゲームの作品性は脅かされない」いわゆるギャルゲがあげられる。何度も同じような時間軸の中で違うシナリオをプレイする「ひぐらしのなく頃に」もその例といえる。別の言い方をすれば同人、パロディ的なものが作品そのものと同じ価値を持って消費されていくということともいえる。

そのような状況を踏まえてみると現代版「時をかける少女」のヒロイン、真琴のタイムリープに対する所作は象徴的ともいえる。原作のヒロイン和子がタイムリープを「世界の唯一性を変えてしまう」恐れ多いものとして、極めてデリケートに扱っているのに対して、真琴は異様なほどに適応性を示し、あっという間に順応してしまうのだ。これはいかに現代が極めて多様な価値観にまみれているか、自らのこの瞬間さえも変えてはいけない唯一性の持つ存在として認識するには困難な時代であるかを示していよう。

では僕らはどのように今ココに生きていることに唯一性を得られるのか。もしタイムリープが現実でも可能にされたときに僕らはどう扱うべきなのか。劇中で何度も何度もタイムリープを使ってしまう真琴は徐々に、繰り返し続ける世界で消耗していく。なぜか。例え真琴が何度やり直せるとしても、それぞれの時間は唯一性を捨てることはできないからであるからだ。真琴にとっては、やり直しができる瞬間であっても、真琴以外の世界にとっては唯一な瞬間である。千昭が本気で伝えたい思いや、功介に告白する果歩の思いはその唯一性ゆえに、それを超越した真琴を苛ませる。そして何度も同じ時をかけていく中で真琴は、一回きりの自分の時間、人生、世界に向き合う決意を固めていくのである。それゆえにタイムリープのチャージが切れて、最後の最後のタイムリープで見せる真琴の懸命さが胸を打つ。「絵が見たいから」という理由で過去にタイムリープしてくる千昭の言葉に説得力が出てくるのだ。

時をかける少女」は唯一性を失った世界において、逆に反復し続けることでしか唯一性を獲得できない現代を、アニメ映画という反復し続けられるメディアによって、見事に描ききった傑作青春映画である。

もちろん他にも傑作な理由はあるけどね。入浴シーンの真琴の半裸の描き方とかwww

追記:ここまで書いてやっと今まで遮断してた時かけ情報を入れてみたw ま、予想通り東浩紀的な見方だよな、この感想。本人と言ってることがかぶってるのは東浩紀氏リスペクトな僕としては、良かったということにしておこう。